国際結婚 別れる夫婦、続く夫婦——分けているのは相性ではなく…

先日、DV/FDV支援の2日間の研修を受けてきました。
わたしの目的は、DVかどうかを上手に迅速に「見分ける技術」を身につけることではありません。むしろ逆で、DVという地点まで関係が滑り落ちる、その手前で何ができるか。そこのヒントを得られるか、また行政サポートの現状と理解を深めたくて受講しました。
わたしのカウンセリングは、DVになる前の段階を扱います。すでにDVが起きている、あるいはその危険があきらかに想定される。そう判断した時点では、わたしは抱え込みません。適切な専門機関にお繋ぎします。ここは、はっきり線を引いています。
チェック項目に当てはめて、答えは出ない
夫婦やカップル関係のこじれは、一覧表に照らして答えが出るものではありません。
「これに当てはまればDV」「これなら文化の違い」。そういう表があれば、どれほど楽か。でも実際にセッションで向き合っていると、同じ言葉、同じ出来事が、まるで違う意味を持ちます。
「俺が稼いだ金で養っている」。この一言をとっても、追い詰められた末の爆発なのか、日常的に相手を従わせる道具なのか。前後の流れ、二人の歴史、それを口にした時の温度。すべてが違えば、意味も違う。
主観だけでも、客観だけでも足りません。本人がどう感じているか。外から見て何が起きているか。その両方を行き来しながら見ていく。図式化した瞬間にこぼれ落ちるものの中に、いちばん大事なものがあります。
白黒を、急がない
「大したことじゃない」と自分に言い聞かせて、何年も抱える人。「文化の違いだから」と周りが片付けてしまう関係。どちらも、判断の先送りです。
けれど、急いで「これはDVだ」と貼るラベルにも、別の危うさがあります。言葉が、夫婦の関係を脅かしてしまうことがあるからです。
そのラベルが何を引き起こすのかは、また別の機会に書きます。ここでは、白黒を急ぐことの危うさだけ、置いておきます。
「相手が変われば」と待っている間に
ご相談の中で何度も見て来て思うのは、「どちらがおかしいのか」と外に問い続けている限り、夫婦関係は心はすれ違い続けます。
「相手が変わればうまくいくのに」。夫も妻も、そう思って互いを待っています。待っている間に、負のスパイラルに陥っていく。
改善方向に動き始めるのは、その問いの向きが変わった時です。相手ではなく、自分の側に、ほんの少し視点が戻った時。
これは、自分を責めることではありませんよ。
「わたしが悪かった」でも「あいつが悪い」でもない。自責と他責の、どちらでもない場所。自分のしていることを、少し離れて眺められる力。わたしはこれを自省力と呼んでいます。
わたし自身、長いあいだ「わたしが正しくて、夫が間違っている」を出発点にしていました。ある時ふと、「でも、万が一夫も正しかったとしたら?」と思ったのです。では、彼が100%正しいなら、わたしが100%間違っているのか?
さすがにわたしも(そうではないな)と思いました。
よく考えたら、両方が正しいことも、両方が間違っていることも、半分ずつのこともある。
正直に言えば、彼が100%正しくて、わたしがただ「正しい」と思い込んでいただけのことも多かった。どちらかに100%を乗せて決めつける。それは、日本で育ったわたしに染みついた白黒思考でした。合格か不合格か、良い子か悪い子か——そう判断されて育った昭和の子ども時代の、なごりです。






















